私はもともとファッションが嫌いで苦しかった経験から、私みたいに苦しむ人たちをなるべく減らしたいと思い、スタイリストになりました。
「服がなぜ嫌いなのか、なぜ考えるだけでも苦しいのか」をじっくり時間をかけて分析してみたところ、私の場合は、「垢抜けない自分とは、誰も仲良くしたいと思わないんじゃないか」という思い込みが強かったから。
服に興味があったものの、ファッションセンスに自信がなく垢抜けない自分は、つねに「劣っている」という意識がありました。私服を引け目に感じていて、「他の人たちにもきっと劣っている人間だ」と思われているに違いないという思いこみがあったから苦しかったのです。
それと同時に、どこか相手に対しても服のセンスで人を判断していたところがありました。
ファッションはなぜか勝手に「判断」されやすいもの。服を着るという行為自体があまりにも身近な行為だからなのか、なぜか自分の価値観を押し付けてくる人が多いです。「垢抜けない」「服のセンスがない」など、指摘してあげることが正義だと思っている人が多くいます。
垢抜けない人には、上から目線で服を批判してもいい風潮があります。そういう経験があって、「おしゃれな人はえらいんだ」という価値観が埋め込まれ、服を着るのが怖くなったんだと思います。
おしゃれな人は一種の社会的ステータス。おしゃれを強要するのはたいてい自己中心的な理由からだと思っています。おしゃれな人が隣にいることで自分のステータスを上げるため、または指摘することで自分が優越感に浸りたいからなど。
私はステータスを第一に考える人とは付き合いたくないし、マウントを取ってくる人とは付き合いたくない。傷つくような言い方をしてくる人とは距離を取ることもひとつです。そういう人の価値観に縛られているのがもったいない。
そもそも、何をおしゃれとするかは人それぞれ。おしゃれ、おしゃれじゃない、垢抜けてる、垢抜けてない、と思うのは個人の価値観。そもそも、おしゃれをしたいのかどうかも考え方は人それぞれ。
それに、服に関わらず自分の価値観を人に押し付けるのは、相手の自分らしさを否定する行為です。
私は普段から「思ったこと・感じたこと」を押し殺す傾向にあり、こういった気持ちに気づくまでかなり時間がかかりました。ずっと私服を着ていくのが苦しかった。服のことを考えるだけで胸が締め付けられて身体が硬直し、涙が止まらなくなった。
服のセンスに自信がない人でも、技術でおしゃれになることはできます。でもその前に、自分が感じていることは単なる思い込みだということに気づかないと、いつまでも苦しい。
思い込みは思い込みだと気づくまでがなかなか難しいものです。だから、誰かに話すことでアウトプットしていくと、客観視できるようになり、やりやすくなる。
服を通じて、絡まった糸をゆっくりほどいていくように、徐々に前に向かって歩けるようサポートをしていくスタイリストでありたいと思っています。
自分がどう過ごしたいかは、自分で決めよう。たとえ周りからとやかく言われても。